ケニアを訪ねたのはもう十数年前。観光で訪ねたのだけれども、あの頃すでに、豊かな自然に触れて素直に感動するという純朴さを、僕は失っていた。「せっかく大枚はたいて来たんだから感動しなきゃ損」などと損得勘定ばかりが頭の中をうずまき、そして空回りしていた。
そんな中、いちばん温かな思い出になっているのは、「ちっちゃなビジネス」の少年少女たちのことだ。
ナイロビから二百数十kmのアンボセリ国定公園に着くまで、カーハヤ(ドライバー付きレンタカー)は午前中いっぱい走り続けた。
いや「走り続けた」というのはうそで、このビジネスのあり方として、車は途中何カ所もの土産物店に横付けになった。そのたびに僕らはトイレを借り、ドリンクだけ買って、後はお定まりのやり取りを繰り返すことになった。
「これは素晴らしい彫刻だ。500シリングでどうです?」
――高いよ。
「じゃ450シリング」
――いらない。
「ディスカウント! ディスカウント! いくらならいいですか? 言ってください」
――現金があまりないんだ。お金を使いたくない。
「大丈夫! クレジットカード持ってるでしょ! 値段を言ってください!」
ドライバーのジョゼフは穏やかで頼もしい男だったけれども、こっちが売り子を追っ払うのに苦労している間中、胸を張って土産物店の主人と仲良く話している姿を見るにつけ、「所詮俺たちゃ金づる」と思った。
だから、長大なドライブの末に、やっとアンボセリ国定公園のゲートが見えた時は、これでやっと「ディスカウント!」から開放されるとほっとした。
彼らが現れたのは、ジョゼフが車を降りてゲートで料金を支払っている間のことだった。
見渡す限り乾燥したサバンナで、周囲に建物も木立もないように見えたのに、どこからともなく7~8人の少年少女が「ワ~イ!」とか言いながら駆け寄って来た。と思う間にカーハヤに取り付き、締め切ったドアロックのノブを指差して、「ここを開けて! ここを開けて!」とニコニコ顔で大はしゃぎで言い出す。
勢いと笑顔に負けて、つい開けてしまった。
「こんにちはー!」
「こんにちは!」
「こんにちはーー!」
――こ、こんにちは!
「どこから?」
「どこから来たの?」
――日本だよ。
「えー、日本?」
「日本だって!」
「日本!」
「すごい!」
挨拶の大騒ぎがちょっと落ち着いたところで、みんなのお姉さんといった感じの女の子がまっすぐ僕に顔を向けてこう言った。チャーミングな笑顔で。
「あのね、これは私たちのちょっとちっちゃなビジネスね! あなたこれ買う」
彼女が言い終わらないうちに、まわりの少年少女が手に手に携えたアラバスターの彫刻や黒檀を彫って作った人形などを「ワー、ワー」とか言いながら差し出した。
僕は「しまった。『あなたこれ買う』だよ」と後悔しながら、丁重に断りを言った。
――いらないんだ。
「でも安いよ。500シリングだよ」
――本当にいらないんだ。
「ディスカウントするよ!」
――ごめん。そのアラバスターの彫刻はもう買ったんだ(うそ)。
「えー。そっかー。じゃ、この黒檀の人形は?」
――それは欲しくないんだ(本当)。
「安いよ!」
――現金がないんだ(少し本当)。
「そっかー」
そこで、脇にいた少年が僕の左腕を指して叫ぶ。
「カシオだよ! カシオだよ!」
「あ、カシオだ! カシオだ!」
「すごーい!」
カシオは人気があった。ナイロビ市内でも、カシオの時計やら電卓やらが並ぶショーウインドーに大人たちが張り付いて涎を垂らしていた。
でも、その時僕が着けていた腕時計は、ヨドバシカメラで800円とかだったプラスチック製のものだった。盗まれたりなくしてもいいようなものばかり身に付けていた。
「この時計と交換ネ!」
にっこり笑う女の子。別にあげてもよかったんだけれど、時計の予備がなかった。この先、寝坊したり飛行機に遅刻したらどうしよう?
――時計はこれしか持ってきていないんだ。時間がわからなくなっちゃう。あげられないよ。
「そっかー」
ここで少年少女たちはいったん車から一歩離れて、皆で顔をつき合わせて何か話し始めた。バスケの作戦タイムみたいだ。
また全員ニコニコ顔で戻って来た。女の子が言う。
「あなたのそのジージャン、とてもいい」
――ありがとう。
「それと交換ネ!」
この国では相手の品物をほめるのは交換の交渉の始まりのようなものだ。さっきも、ジョゼフがダッシュボードから出した双眼鏡を立派だとほめた途端、彼は僕の小さな双眼鏡を一瞥して、ちょっと考えたような間を取ってから首を横に振った。「交換しよう」と言ったつもりではなかったのに。
でも、少年少女たちには、ちょっと虚を突かれた。
――上着はこれしか持っていないんだ。もしこれを君たちに渡したら、寒い夜(本当に寒い)にTシャツ1枚でいなけりゃいけない。これはあげられないよ。
「そっかー」
再び作戦タイム。
戻ってきて、女の子が言う。
「あなたのそのスニーカーと交換ネ!」
――靴はこれしか持って来ていないんだ。はだしで歩きたくないんだ。
「そっかー」
再び作戦タイム。
戻ってきて、女の子が言う。
「あ、この本知ってる! 前に来た日本人も持ってたよ」
恥ずかしいけれど、本というのは「地球の歩き方」のことだ。
「見せて! 見せて!」
――どうぞ。
女の子が「地球の歩き方」の写真ページを広げて、他の少年少女が頭を寄せて来て、みんなで食い入るように見始めた。
初め気付かなかったけれど、このとき彼らの“ちっちゃなビジネス”はすでに終わっていたのだ。最後の作戦タイムで、商談を続けるのはやめという結論になっていたらしい。あとは自由時間だ。
「この写真の木はなんていう木?」
――それがバオバブだよ。
これじゃあべこべだ。第一、僕だって生きたバオバブは見たことがなかった。ケニアも海岸沿いの南部方面でないとバオバブはないとジョゼフは言っていた。
「この写真はどこ?」
――タンザニアの写真だね。
「ここにも行くの?」
――今回は行かない。
「この写真は?」
――ナクル湖だよ。
「ここにも行くの?」
――うん。
「すごいなー」
「いいなー」
「行ってみたいなー」
君たちの国なのにね。自由にあちこち見ているのは、僕ら外国人の方だなんて。
ジョゼフが戻ってきて、車はいよいよ動物たくさんのアンボセリ国定公園に乗り入れることになった。
少年少女はいつまでも大きな声で、大きく手を振ってさよならをしてくれた。こちらも負けずに手を振る。
かわいいやつら!
その後、午後いっぱいをかけてジョゼフは8.0とかの視力で動物たちのハイライトシーンを探し、カーハヤはアンボセリ国定公園の中を縦横に走り回った。
それはそれで楽しかったんだけれど、僕は“ちょっとちっちゃなビジネス”のみんなと、日がな一日とりとめのないおしゃべりをしていたかったなーと、後になればなるほど思い出す。