昭和天皇の“不快感”に恐縮する

遊就館のパンフレット。 壊れた世界
遊就館のパンフレット。

所用で九段界隈を訪れるたび、靖國神社に知らぬふりはできず、短い時間でも参拝してきた。平日に行ってみると、意外や、欧米人やアジア諸国の人が多いことに少し驚く。欧米人の少年にとっての目的は、どうも遊就館のゼロ戦らしいのだけれど、彼ら外国人の境内での礼儀正しい様子を見るにつけ、逆にこちらが襟を正すことになる。

遊就館のパンフレット。

遊就館のパンフレット。

 本殿に頭を下げ、手を合わせての思いは、感謝に尽きる。戦死者の一人ひとりがどんな思いであったかは、いちいち想像しても足りるはずもなく、ただただ頭を下げるほかはない。そして、いい加減な国にしては申し訳ないと思いながら下がってくる。

 A級戦犯の一人ひとりについての私の考えは、それぞれに対してある。好きになれない人もいれば、そうでもない人もいる。ただ、私の場合、あの鳥居をくぐったときに、彼らのことは忘れている。神社に参るとき、どの神様をと分けて祈るというのはあり得ないと言う人もいるけれど、祈りたくないとかどうかということよりも、とにかく忘れている。

 他の神社を参って、後で「なんとあの神様も祀られていたか」と気付いたときは、失礼をしたと思いながら、むしろありがたいなどと思ったりする。しかし、靖國神社での場合、私は帰るときにも、A級戦犯の彼らも祀られているということは、忘れたままだ。

 A級戦犯合祀反対の意見があってのこととは言えない。亡くなった彼らに対して、許さないという気持ちもない。

 人にはそれぞれ、そのときどきの役割があって、それを演じきって死ぬまで。人間というもの、「殺してやりたいほどの恨み」というものを抱くことがあるにせよ、それはテキが生きている間までのことなのだろうな、というのが私の予想。たとえば、墓を暴いて遺骸を辱めるといった文化は、私には理解できない。そういった文化を非難はしないが、それは私の属する文化ではない。

 であれば、A級戦犯合祀ということも、全くあり得ない選択ではないだろう。「そうなっています」と聞けば、「そうでしたか」と思うほかはない。

 まあ、祟ることを怖れて祀るのなら、戦死者とは悔しみの出所が違うはずなので、別な神社を建てた方が自然であったように思うけれども、それは私の小さな気持ち。靖國神社でそういう選択をしたということであれば、「そうでしたか」と思うほかはない。

 A級戦犯の一人ひとりが、死後靖國神社に祀られることを望んでいたかと考えると、全員がそうでもないように思える。でも、それがいかがであったにせよなかったにせよ、靖國神社でそういう選択をしたということであれば、「そうでしたか」と思うほかはない。

 それにつけても、とにかく私は、靖國神社を参るとき、彼らのことをすとんと忘れている。私が靖國神社を訪ねたい気持ちの埒外に、彼らはいる。けしからんと言われるかも知れない、作法が違うと言われるかも知れない、ばちが当たると言われるかも知れない。でも、忘れている。いたしかたない。

 さて、7月20日、日本経済新聞の「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感」の記事。「やはり」と思う前に、私はただ恐縮した。「今後靖國神社に行くか行くまいか」など考える余裕もなく、ただただ恐縮した。「彼らのことを忘れている」などと呆けたことを言っていたら、雷に打たれてしまった、といった心境だ。縮こまる以外になく、まだこれから靖國神社に行けるか、もし行くときどういう気持ちで行くか、などなども考えられる状態ではなく、全くまとまりがつかない。

「単純なる小国民」などと笑う人もいるだろうが、これもまたいたしかたない。

「真贋を見極めるべし」と言う人もいる。「あの人が、あの方が言われたからとか、(参拝が)いいとか悪いとか言う問題ではない。誰でも自由だ」と言う人もいる。いずれも間違った話ではない。

「天皇を政治利用するな」と言う人もいる。「Chinaや韓国を勢いづかせるのか」と問う人もいる。それも理屈の通った話だし、心配なことだ。はたまた日本経済新聞社社員のインサイダー取引問題とのかかわりから、この時期にこれが記事となった理由を説明しようとする人もいる。

 どれも、冷静に、きちんと決着をつけるべき話だと思う。その一つひとつの動きに賛成だ。

 ただ、そのこととは別に、いち早くこれらの論を立てた人たちの、その胆の太さが、どうにも個人的に気になって仕方がない。

 彼らは恐縮したのか。

 鳥羽伏見の戦いで、自分たちの頭上に錦の御旗を翻らせた薩長の策略は醜い。ただ、あの時、幕府軍は背中から撃たれるとわかりながらも、泣きながら逃げ出すしかなかった。今日の日本人は、あの日本人を笑うことにしたのだろうか。

 理屈の決着は付けねばならないし、内政干渉には断固たる態度を取らねばならない。もちろん。ただし、それはそれ。そのこととは別の次元のこととして、このたびは自分の考えを言う前に、あれやこれや議論する前に、日本国民の総意に基く地位にあった方のお言葉に、一旦深く恐縮してしかるべきではないのか。それがない人の言動というのは、どうも信用が置けない。

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