「環境ファッショ」という言葉がある程度定着してきたようだけれども、これが本当にファッショなのかどうかはわからない。ただ、ある思潮が力をつけて、ついに世界を動かす原理の一つになってしまった。
以下は、世間的には酒の肴のとんでも話とでもご了解いただきたい。
世界のルールは変転している。大昔は腕力。その延長に、石礫、棍棒、槍、剣、弓などが加わってきて、割と最近になって火薬が加わった。そういうものを使って、どれだけ相手をやっつけられるかで、国同士の勝負をつけるのが、昔から続くルールだ。
それも、昔は武人をどれだけやっつけられるかがルールだった。次いでその戦力が大衆化して、兵士をどれだけやっつけられるかがルールになった。日本でのそれは元寇以降。そして第二次世界大戦の頃までには、非戦闘員を含めて相手の国民をどれだけやっつけられるかをやってもいいというルールになった。
第二次世界大戦の後は、どうもそのルールはあんまりひどすぎるというので、闘わずに戦うルールを探りはじめた。その道具に使われた一つは、ほかでもない、究極のひどすぎるものつまり核兵器だ。
一方で、経済で戦うことを前よりも本格化した。日本は実は戦前から満州に集めた頭脳でこの準備をしていたので、けっこう善戦した。けれども、米国に余計に勝ってしまったために、本格的な反撃を受けた。護送船団はだめだとか、郵政とか談合とかヤクザとかはだめだとか、そういうのはその反撃の中に含まれていたのだろう。
一方で、このやりとりを欧州が虎視眈々と眺めていた。そして、米国が嫌がる新機軸で日本へ攻め込んできた。経済に環境の概念を持ち込むという戦略と、その戦略を実現する戦術や兵器としてのオゾン、環境ホルモン、温暖化、二酸化炭素(CO2)、水資源、リサイクルなどなどだ。今いちばんの兵器として注目されているのはCO2だろう。
いずれも、合理的な話でないこと、非科学的であることは、きちんと勉強している人はわかっている。できれば、人としてこんなことの推進にはかかわりたくない。でも、生きていく道としてはしかたがないと割り切る人もいるだろう。そのためには、はなから科学的態度を捨てるしかないと割り切っている人もいる。
まあ、ここまで来ると抗えない。1941年の12月にあなたが成人していたとして、ではあなたは「戦争反対!」を叫ぶことができる人だったろうか。その勇気と、それを可能にする立場を、あなたは持てただろうか。「きさま、家族を鬼畜米英の餌食にされてもいいのか!」なんてやりこめられるんですよ。いわば、家族や地域の人たちを人質にとられて論破されるのだ。
いま、環境の話題に抗えないのも、これと同じだ。やはり、家族と地域が人質にとられ、不合理、非論理を押しつけられている。耐え難いけれど、これはじっと我慢するしかない。
しかし、たかだか50年ほどの辛抱のはずだ。今世紀半ば頃には、環境を使って世界を振り回し、財貨を集め、魔女狩りを行い、日本の憲兵や中国の紅衛兵のごとく人々を震え上がらせた、そういう人たちの戦犯狩りが終わっているだろう。その人たちは、数十年の栄光と引き替えに、向こう数十世紀の間蔑まれるという不名誉を手に入れるはずだ。
「ファッショでした」という評価が確定するのは、その段階でのことに違いない。ムッソリーニとヒトラーの幽霊が、「そうだよ」と言うだろう。で、誰がその化け物を創造して踊らせたかといえば、その時代に生きてる人間一人ひとりの全員なんだ。