父・齋藤讓は昭和5(1930)年生まれ。新潟県新発田市の出身。3人兄弟の長男。子供の頃、朝の海で釣りをするのに夜明け前に家を出て自転車を走らせた。その途中で姿を現す太陽の様子が恐ろしく見えて、それを見ないように走ったなんていう話をよく聞かされた。
父の伯母、私から見て祖母の姉は秋田の牧師に嫁ぎ、その影響から一家はクリスチャンになった。父のいとこ、ささぐちゃんと言っていた人が、聖書学者の荒井献さん(後に私がグノーシス主義すげーと思って大事に読んでいた本の著者が祖父母の葬式などに来ていたその人と知ってたまげた)。祖母はそのお姉さんに憧れと対抗心があったらしく、厳しい教育ママだった様子。
父の父、私の祖父は若い頃北海道の百貨店で丁稚奉公をして、新発田に戻って反物を商っていたという。そういう自営業者の息子だった。「ふなぐち菊水一番しぼり」を出した菊水の高澤英介さんは中学の同級生だったと言っていた。それもあって、ふなぐちの缶はいつも並べていて、彼は下戸なのだ、だから人に聞きながら立てながらこういう開発ができたんだなんて言いながら、毎晩うれしそうに飲んでいた。
戦争が始まると、事業者には軍需の仕事の割り当てがあったらしい。それで、祖父は戦時中鉄砲の弾丸を作る工場を営んでいたと聞く。そして戦争が終わると、アメリカ兵が来て殺されると言って、道具の一切合切を自転車だか大八だかに積んで川に捨てに行ったとか。それですっからかんに。それから、祖父は東京に何度か足を運んだ。仕事と転居先を探していたのだろう。
父は祖父に命じられて、その東京行に何度か伴った。これを目に焼き付けて忘れるなと焼け野原の東京を見せられた。それが目的であったらしい。やがて一家は東武練馬に居を移す。祖父が反物を行商して歩き、祖母が仕立てて着物で納品する、この方式でけっこう売ったらしい。祖母は和裁の名手で、後に死の床で意識を失ってからも胸の上で裁縫の手つきをやめなかったほどだった。その手のまま納棺した。
さて、終戦時15歳だった父はやがて進路をどうするか考え始めるが、これを飲んべえの父と厳しすぎる母とガリ勉で教条主義で面倒くさい妹弟とで出来ている家を脱出する機会としたらしい。全国に、勉強をしないで入れる大学がないかを探した。そこで見付けたのが、函館水産専門学校を吸収して出来たばかりの北海道大学水産学部だった。これへの入学を口実に、家をまんまと抜け出した。これで、妹と弟から、兄ちゃんは長男なのに家を捨てたと、後々まで言われ続けることになった。
仕送りはない。バイトして学費と生活費を稼いだ。函館港でよく釣をして寮で料理して食ったらしい。ある日、フグばかり山ほど釣れた。そこにいた人がさばき方を教えてくれた。教わったとおり寮で料理して、味噌仕立ての汁をたっぷり作った。さぁ食べるというときに友達が来て、こんこんと説得されて出来た汁をすべて捨てた。あれを食べていたら、兄も私も生まれて来なかったかもしれない。
その在学中に、母と出会う。母は、女子栄養大の短大を出て関東の百貨店で働いた後、なんでも高校時代の先生から、できるだけ勉強を続けたくなる環境にいなさいと勧められたとかで、北大水産学部の事務の仕事を世話してもらったらしい。そこでグループ交際みたいな感じから付き合い始めて、結婚することに。讓だからみんなからジョーなんて呼ばれて、ちょっともてたみたい。でも、一方では「サイトウ・ユズラズ」とも呼ばれていた。頑固で面倒くさい人。
※正しくは、母は遺愛を卒業した後で北大水産学部でしばらく働き、それから女子栄養大の短大へ進学し、いわき市の藤越(スーパーマーケットの会社)で栄養普及員としてしばらく働いた。結婚はその後。
大学を出て父は新潟県立能生水産高等学校(現・新潟県立海洋高等学校)の教師という仕事を得る。それで糸魚川で新婚時代を送る。私の兄はこの頃に生まれた。父は昔から電気機械マニアでオーディオマニア。この前者が兄に影響を与えた(はず)。大事にしていたものの一つが、オープンリールのテープレコーダー。ほかに二眼レフとスライド映写機。
物置にあったオープンリールに父と小さい頃の兄の会話が残っていた。話している背景にゴーーーというものすごい音が聞こえている。子供の頃、私にはその音が薪を焚く風呂釜の音に聞こえたので、そうかと尋ねると、それは日本海の波の音だという。寄せては返す音ではなく、常に一定レベルでゴーーーといっているのでまさかと思ったが、そうだという。日本海恐るべし。
能生の水産高校では何でも教えていたらしいが、割と熱心にやったのが鯉の養殖だと言っていた。専門は植物だったはずなのに。
それで、時田先生という北大の偉人がいらした。父の師。あるとき、その人から、北大に戻れという指令が来た。師匠の命で戻った。それから北大水産学部の講師になった。それで藻類の研究者に戻った。後に出来た時田先生の追悼文集のタイトルは、「君は海をやりたまへ」という。その台詞で、幾人も学生を呼び戻して水産学部を盛り上げていったらしい。
ぺいぺいの一研究者だった父は、そこでちょっとした鉱脈を当てる。Laurenciaと言えばかっこいいけれど、和名でソゾという海藻がある。それの分類を、父はユニークで気の利いた方法でやったらしい。それが藻類方面でバカウケとなった。あちこちから、こっちにも講演に来いとか、いっしょに研究しろとか声がかかった。
兄が、「友達はみんな兄弟がいるんだよ。僕も弟が欲しい」と言ってくれたおかげで、私が生まれた頃のこと。その私がまだおしゃぶりなんかくわえているような頃、飛行機で発つ父を空港で家族で見送る写真が残ってる。東京経由でハワイに行ったときのこと。ハワイの大学に呼ばれて数カ月いた。米国本土にも行って、そのスライドをよく家で見せられた。私の小学校時代はオーストラリアに半年いた。アラスカに3カ月いた。そんなことが何度かあった。田舎のガキにとってはなんか自慢だった。
しかし、ぺいぺいがそんなんであっちこっち行っているのを面白くなく思う人はいたよね。また、例のサイトウ・ユズラズってやつで、父は曲がったことが嫌いな上に頑固者。職場ではいろいろな人と対立していたらしい。そういう面倒くさいものを、兄も私も受け継いでしまって、持て余してる。けれど、父本人がいちばん持て余していたに違いない。当然のごとく昇進は遅れ、万年講師。ほんともうじき退官ですからという頃になってやっとお情けで助教授にしてもらい、教授のタイトルで退官させてもらった。
まあ、あの頃は酒飲んでたね。父に質問があって話していると、父の口から漏れる焼酎の気だけでこっちが酔っ払っちゃうぐらい。父はイヤな気分で飲むことはないからアル中にはならないと言い張っていたけれど、今思い返せば嘘だね。憂さ晴らしに飲んでいた。勤め先はいわば田舎の役所だから、6時頃には家に帰って、さっさと飲み始める。ちょっと遅いなと思うと、バス停の目の前の酒屋でカクウチというやつでひっかけて帰って来る。この酒屋のお嬢さん方がお化粧濃いお姉さん方で、酒屋で飲んで来たとわかると母はいつもキーキー怒っていた。
私が小学校5年生のとき、父が学会で東京に行くのに、私を伴ってくれることになった。それで私は初めて飛行機に乗った。うれしくて、うれしくて、うれしくて、うれしくて、うれしくてたまらない、今思い出してもわくわくする旅行だった。
何週間も前から、乗る飛行機は何だろうとか頭がいっぱい。でも、ふと、ところで父さんは学会で発表があるっていうけれど、何の発表をするの? と聞いてみたら、よくぞ聞いたなんて感じで、うれしそうにスライドのセットを出してきて、家庭内ミニ講演が始まった。
山火事があったとしたら、その後そこはどうなるか。小さな草のようなものが生え、やがて灌木が生え、さらに陽樹が育ち、陰樹が育ったところでおよそ固定する。そういうのは知っているかって、それ最近学校で習ったよ(昔は小学校でサクセッションの説明があった)。そのことが、海の中でも起こるということは、たぶんそうだろうねとは思われているんだけれど、実際に調べた例は少ない。それを何年かにわたって観察と採集を繰り返して、やっぱりそういうことはありますよということを、説明するのだという。そんな話だった。あの頃はへーでしかなかったけれど、分類学から生態学へ、なんか活路を探っていたらしい。
退官近い頃、大学生の私が帰省した折、父の学生が家に遊びに来た。そういうのは久しぶりだった。昔は、家にしょっちゅう学生が何人も来ていた。みんな貧乏だった。学生時代に、同じというかもっとひどい貧乏をしていた父は、通っていた大学から給料をもらうようになると、学生にもりもり食べさせたかったらしい。大勢いらして、車座になって、母が作った料理を食べながら、みんなでわははわはは言いながら酒を飲んでいた。それを恐る恐る見ながら、声が大きくて怖いなと思いながら、それは私にとってもにぎやかで楽しい思い出だった。
恐らくそのように家に来た最後の学生さんが、今北大水産学部の学部長をされている。私の記憶違いでなければ、そのときその方は、父に磯焼けの研究をもっとしましょうと繰り返し促していた。海の砂漠化である。小5のときのサクセッションの話から続いている話である。なのに、あのとき父は乗り気になっていなかった。うんうんと言いながらはぐらかしていた。
おそらく、自分の頭の働きに自信が持てなくなっていた。そして大学という組織のことが嫌で嫌でたまらなくて、一日も早く逃げ出したい思いが募っていたらしい。私が大学に残る話をしたときも猛反対で、卒業生に頼んで就職先を探してくれたりした。私は反抗もあってそれには応えなかったけれど、その卒業生の方には申し訳ないことをしてしまった。
退官後の父は、もう書きたくないような、痴呆への歩みを続けた。帰省するごとに、この世から遠ざかっているように感じた。南極に出張したときのことを聞かされたときには、こりゃもうだめだと思った(行ってないから、そんなとこ)。
もう20年近いか。両親は函館を引き払って東京に居を移した。これがよくなかったよね。父の頭の混乱に拍車をかけた。道に迷い、帰って来れなくなるということが何度か。これは私も受け継いでしまっている癖なんだけれど、わからなくなると、わかるまで真っ直ぐ行ってしまう。それで余計わからなくなる。住んでいるところが「小金井」だということはわかっているらしい。それで、「小金井」行きの電車に乗って、宇都宮あたりの警察から連絡が来たということもあった。こういう失敗が続いて、よけい萎縮したよね。
数年前、いよいよひどくなり、粗相もあるということで介護施設へ。母はそれを恥じるように言っていたけれど、素人ができることではないんだからと説得して。それで、彼は生きながら他界した。たまに行けば顔は見れる。それは墓参りと同じことだよね。そういう私の感覚で、私は兄を怒らせているかもしれない。兄は優しい人なんだ。でも、衰えて、干からびて、ムンクの叫びの目をとじたような、ゴヤの怖い絵のような、そんな風になっていく父を、私は見るのが辛かった。見るなよって言ってるようにも感じるし。
昨夏、介護施設の恒例の夏祭りで、車椅子の父を横にみんなで屋台料理をつついた。でも、去年はその間、父は寝たままだった。それから幾日か後、誤嚥で肺炎を起こして入院。口腔外科に見てもらうと、嚥下能力が低下していて、唾液も飲み下せていないと。経鼻経管栄養が続いた。医師からは何度か胃瘻を勧められた。議論は分かれるところだけれども、兄と私とで、そこまでは父自身が望まないことと結論した。
でも、その管が炎症を起こしたり、褥瘡がひどかったり、気の毒だった。
昨日の午後、私はたまたまあるところで農業に関する講演をしていた。話の後半、陸から流れたものが海に影響を与える、陸と沿岸で一つの生態系が出来ていて、陸の仕事も海の仕事も、切り離しては考えられないという話をした。ちょうどその頃の16:29に、父は召天。
「ほう。さとしくんはいい話をしているねぇ」
そんなことを言いながら、彼は私のスライドを眺めて、出て行ったらしい。