この世的な墓地

多磨霊園の桜。 エデンの東
多磨霊園の桜。

初詣の行列で世間話をした老人が「多磨霊園の桜が乙だ」と話していたのを思い出し、趣向を変えた花見に出かけた。

多磨霊園の桜。

多磨霊園の桜。

 家族で園内をぶらぶら歩き、茶を飲んでいなり寿司を2~3つまむだけだから、体にもいい。春の陽射しの下、死者に囲まれて明るく穏やかな気持ちで冥境に思いを馳せるなり、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」(梶井基次郎「桜の樹の下には」――新潮文庫「檸檬」所収)のを味わうなりもできるのではないか、そう思ったのだ。

 桜は七分~八分咲き。たしかに美しい桜の木なり並木なりはあった。

 しかし、「こういう墓地は初めて見た」という印象ばかりが強く残った。

 まず、園内を縦横に走るメインストリート沿いの墓の面積の広いこと。通常のサイズの墓(仮に、一抱えほどの大きさの墓標が1~2段程度の礎石の上に載っている程度のものと考えたい)が数基は収まるぐらいの広さが標準で、最近都会でよく見かけるペンシルハウスぐらいの一軒は建ってしまうのではないかという広大なものも珍しくはない。

 次にデザインの奇抜さが目立つ。

 こういう広さの墓は、当然、そこに立っている墓石も巨大だ。断崖絶壁そのものの自然石一枚というものもあれば、前方後円墳の模型のようなものもある。生きている人間が中に入って楽しく暮らしていけそうなドーム状、小屋状のものもある。球状のものもあったし、よくできたピラミッドもあった。

 また、あまりに広くて、メインの墓石だけでは敷地が余ってしまうため、これまた巨大な副次的なアイテムを帯びている墓が多い。樹木、植え込み、墓碑銘をくどくどと刻んだ大型の石板の類は可愛い方。メインの墓石をむしろ上回るデザイン的独創性を備えた構造物が目立つのだ。

 一対の狛犬が守る墓があった。左右どちらとも口を閉じていたのは、何か言わんとするところがあるのかも知れないが、根本的な勘違いがありそうでもある。

 かと思えば、鳥居のある墓もいくつかあった。また、メインの墓石の両側に大きな仏像が脇侍として立つものもある。

 こうなると、墓石ではなく御神体なり御本尊様なりということだ。死後直ちに神様仏様になったことを主張しているらしいが、どういうスタイルでお参りしたものか、悩みそうだった。

 こうした度胆を抜く巨石文明の他に、胸像、レリーフといった青銅器文明もある。園内のそこここに、いろいろな人の生前の姿が残され、脇の金属板に仰々しいタイトル、プロフィールがくっきりと刻み込まれている。

 繰り返すが、園内、桜は七分~八分咲き。たしかに美しい桜の木なり並木なりはあった。さりながら、どちらを向いても、この世の見栄も欲もしがらみも何もかも持って行かされたようなスペクタクルばかりが目に飛び込んで来て、ちょっといたたまれなくなった。

 中には、何か行きがかり上の理由で広い墓地を(誰かが)用意したものの、結局炬燵程度の大きさの墓石をちんまり置くぐらいしかできなかったという“持て余し型”もちらほら見受けられる。しかしこれまた、巨石文明とは違った形で、この世的な事情を引きずっているようで哀しい。

 一方、当初御多分にもれず世間様に恥ずかしくない巨石墓を完成したものの、もう永らく誰も参ることなく、墓石も副次的構造物もすっかり草に埋もれた墓もあった。草などというレベルではなく、遷移が進んで陽樹の潅木が生え出していて、空地にしか見えないような墓さえ見た。

 よく手入れされていようと、放置されていようと、死後の世間体(というものがあるとして)が、遺族・子孫という生者の行動に左右されるというのも、つらいことだ。

 またどの墓にも、名刺受けが標準で付いていることも何とも不思議だ。関東の、あるいは最近の墓地では普通のことなのかも知れないが、そこに名刺を放り込んでいかなければならない人物、事情とはいかなるものか?

「私は来ました・か・ら・ね!」とアピールしたいが、遺族・子孫に事前ないし事後に電話したり手紙を書いたりはできないシャイな人が多いということか。どうであれ、墓参人その人自身の願いとしての死者との対面ではなく、遺族・子孫に対してアリバイを示せるか否かが問題となっているわけで、これまた非常にこの世の見栄的なものであり、欲的なものであり、しがらみ的なものには違いない。

 帰宅後、十数年ぶりに二冊の本を引っ張り出して晩酌のつまみにした。

 死にまつわるキッチュがどのようにして現れたか、建築学の専門家が人類学的、歴史学的にアプローチした「〈墓〉からの自由」。

 家族には、帰りの道すがら頼んだことを念押しした。――「墓は作らないで欲しい」。

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