「ユダの福音書」待ってました!

かわいそうなユダ……。(オットー・ボルスト『中世ヨーロッパ生活誌』白水社 掲載のヨハネス・デ・モンテヴィリャ、1481年?『旅行記』図版から) エデンの東
かわいそうなユダ……。(オットー・ボルスト『中世ヨーロッパ生活誌』白水社 掲載のヨハネス・デ・モンテヴィリャ、1481年?『旅行記』図版から)

子供の頃は、将来両親と同じく洗礼を受けることを全く疑わずに毎週教会に通っていた。けれども、長ずるに従って、特定の宗教を自分の宗教とすることがどうにも面白くなく思えてきて、だから未だに何教の信者でもない。最近は海外旅行の時、入国申請書のreligionに「Buddhist」と書いているけれど、どなたかの弟子であるわけでも、特定の寺院の檀家であるわけでもない。

かわいそうなユダ……。(オットー・ボルスト『中世ヨーロッパ生活誌』白水社 掲載のヨハネス・デ・モンテヴィリャ、1481年?『旅行記』図版から)

かわいそうなユダ……。(オットー・ボルスト『中世ヨーロッパ生活誌』白水社 掲載のヨハネス・デ・モンテヴィリャ、1481年?『旅行記』図版から)

 ただ、人生の半分ぐらいを無茶苦茶に翻弄してくれたものであるだけに、キリスト教に対して言いたいことは山ほどある。別に好きとか嫌いとかではなくて、私なりのキリスト教解釈はさせていただいています、ということだ(もちろんある面感謝もしている)。

 で、新約聖書中、いちばん引っかかっていたものの一つが、イスカリオテのユダの扱われ方だ。彼は、イエスを金で売ったということになっていて、どの福音書でも裏切者として書かれている。そして、カトリックと大方のプロテスタントのどれもが、彼を罪人扱い、否、悪魔扱いしている。イエスが人間の原罪を消すための事業(十字架につけられる)をするに当たって、それにかかわったユダが救われた記述がない。ということは、聖書中、ユダは人間として扱われていない、いわんや神としても扱われない、つまり悪魔扱いされているということだ。――こんな不当な話はない。

「マタイによる福音書」では、ユダはイエスが死刑判決を受けて後悔し、「銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」ことになっている。その後、祭司長たちが、“人を売って得た金を神殿のものにするわけにはいかないから”ということで、その金で土地を買って外人墓地を作ったという。

 ところが、「使徒行伝」(ルカが書いたらしい)では、随分と激しいことになっている。「ユダはわたしたち(ペテロら)の仲間の一人であり、同じ任務を与えられていました」のに、「ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」。――全然違うじゃん。そして、なんとむごたらしい記述……。

 この記述の落差から、10代の私が直感したのは、イスカリオテのユダは、他の弟子たち(ペテロとかヤコブとかヨハネとかルカとか)から嫉妬されていたのに違いない、ということだった。

 イエスの死は預言されていたという。ユダの裏切りも預言されていたと言う。あまっさえ、イエスは、兵隊を連れてきたユダに「友よ、しようとしていることをするがよい」とさえ言った。そのイエスは神で、ユダはただの人――つまりは、ユダは神にはめられたということ?

 違う、違う。

 イエスもユダも、お互いをよーっく理解し合っていたわけでしょう。最後の最後に、私たちどうなるの? っていうところまで。同じ鉢に同時にパン突っ込んでかちゃまして(北海道弁:かき回す)食ってた仲なんですから。金庫番だし。

 それで彼は、彼なりにイエスに対して誠を尽くし、赤心を表して、断腸の思いを秘めて預言を成就させた。こんな素晴らしい人はいないはずですよ。イエスにとって、キリスト教にとっての大恩人のはず(うーん。こりゃ歌舞伎になるね。「王王由縁橄欖山:おうのおうゆかりのかんらんざん」なんてどうかな。観たい!)。

 そんな大役を、ニワトリが2回鳴くまでに3度も「わしゃ、イエスなんか知らん!」とシラを切った弱虫オジンのペテロにできたか? ヤコブに? ヨハネに? イエスが死の恐怖に震えながら祈っている最中に居眠りしていた連中に? あり得ない!

 そう思って二十数年。ようやく胸がすっとしそうなニュースが入ってきた。米国ナショナルジオグラフィック協会が、彼らが入手した古文書が、「ユダの福音書」の写本であったと発表したのだ。

 この話は、「ナショナル ジオグラフィック日本版」2006年5月号(4月28日発売)に特集が載るほか、書籍「ユダの福音書を追え」も出るという。楽しみ!

 この写本の真贋、今の私にはわからないけれども、イスカリオテのユダに光が当てられる動きは歓迎したい。ユダ、おめでとう。

 どんなに磐石に見えるストーリーも、歴史とは人間が作ったものである限り、いつでも、どのようにでも、そしてこてんぱんに、ひっくり返る可能性はあるのだ。

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