昨日の朝(日本時間)、Father Yoshi, 亀浦芳孝神父が12月9日の朝(米国太平洋時間)に帰天されたとの知らせ。享年81。厳粛な思いで一日を過ごす。
僕らにとっては「かめさん」、米国の親しい人たちの間では “Yoshi” 。かめさんが「”Reverent Father”と敬いなさい、このぉ〜」とおどけて言ったことがあるけれど、みんなかめさんと話すときはいつも表面はふざけて、心では尊敬していた。というか、誰しもかめさんの言葉に頼っていた。
前にこれを書いた頃、いや、2000年代のはじめ頃、当時僕は姉妹校の同窓生と運営していたメーリングリストの管理に関わっていて、その運営メンバーとメールでやりとりしているなかで、かめさんが話題に上った。高校の恩師で神父がおそらく渡米したまま連絡が取れないと話しているなかで、インターネット時代はすごいと思ったのが、僕らはそこでやすやすとかめさんの居場所を見つけてしまったのだ。カリフォルニアの不動産会社か何かのサイトだったと思う。僕らはかめさん、いや Yoshi の住所を知り、遠景ながらその家の形まで見てしまった。
ただ、そのとき聞いたのだ。「さとし、元気でいるね。僕にはかまわず、さとしの仕事をしていなさい」という声を。地図のそのポイントから声が出てくるイメージで。訪ねてはいけない。そもそも居所を知ってはいけないという力を感じた。それで、検索結果は消去し、そのことは忘れることにした。
かめさんが日本にいた頃、いや、かめさんが僕らの学校にいた頃、僕らはかめさんにとって本当に負担だったと思う。かめさん自身が悩みの多い青春だったと聞く。そこから求道者として神学に向かっていった。人を導くことが神父の務めの一つではあろうけれど、僕らの無邪気さはずいぶんかめさんを苦しめたと思う。だから、訪ねようとしたり、手紙を書いたり、探したりしてはいけないというメッセージを感じ取っていた。いや、会えばきっと喜んでくれる。しかし、それがまたかめさんを苦しめるはずだった。もはや彼は、僕らから自由なはずだった。
そんなわけで、僕はかめさんを“秘仏”と考えることにした。目の前にいないからこそ、思いは強くなり、存在を強く感じる。たぶん、どの神様も同じ仕組みで強い存在になっているんだと思う。
ところが、巡り合わせはなんとも味わい深い。人生=神話にはトリックスターが潜んでいるもの。その後、これを書いた10年ほど後、思いがけないことから僕はかめさんに再会することになった。かめさんは僕がとうに死んだものと思っていたらしい。そう思わせるほど、20代前半までの僕はほんとうにやばいやつだった。それもあって、体を離すタイミングがわからなくなるほど強く長いハグでその一日は始まった。
まず、地階にある店でコーヒーを注文して、三十数年の間のお互いのことを披露し合った。そして、神について、人について、信仰について、ずっとずっと語り合った。僕はクリスチャンではないし、だいぶ見方考え方が仏教に向かっていて、たぶんもうきっと受洗することはないことも、かめさんは理解してくれたと思うし、その上でなお、僕らは多くのことを語り合い、考えを共有した。
神学校の義務散歩以来の習慣で、かめさんは考えるときに歩く。話せば話すほど、歩かずにはいられなくなって、外に出ようということになった。僕らは店を出て公園へ向かった。池と芝生と林のある公園を、僕らは何周も何周も歩き、語り合った。
さらに、その夜の移動の都合もあるので、とりあえずずっと遠く離れた場所まで交通機関で移動し、そこでもまだ時間はたっぷりあるから歩こうということで、さらに大きな公園に行って、また僕らは歩きながら話し出した。
かめさんはまた、見知らぬ人にもよく声をかける。すれちがった人、ちょっと目が合った人、すぐに声をかけて話しだす。すっかりアメリカ人になった様子だった。
ある若いアメリカ人は僕らの組み合わせが不思議だったらしく、「友達なの?」とか聞いてきた(ゲイの年の差カップルに見えたのかもしれない。別に問題ない)。僕が、「彼は僕のマスターだよ」って言ったら、「そっか、そっか、ヨーダだね!」と返してきた。かめさん小柄だから。
そうやって楽しく冗談をやりとりした直後、また二人で哲学話。そうして朝から、ほとんど日が暮れるまで、歩き、語り合った。夢のような一日だった。機会をつくってくれた人と運命に感謝している。でも本当に夢だったのかもしれない。
昨年5月頃か。新型コロナでたいへんだけどいかがですかというご機嫌うかがいでメールを送った。祈りが大切だということと、もっと話したいことがあるからメール/手紙を待つということを承る。
それをしないまま、かめさんの帰天の報にふれてしまった。でもきっと、presence は今まで以上になると思う。すでにそれを感じている。