「サリン」「VX」という名前のカクテルだと?

こちらはマルガリータ。 想う伝える
こちらはマルガリータ。

メディアは、事実をすべてそのまま伝えればいいわけではないという話。「坂東眞砂子の子猫殺しがいけない理由はない」では、新聞社が例のまがまがしい文章を掲載したこと自体おかしいと書いた。書かれた事柄は事実だと分かった上で、書き手の自主性を尊重してスルーしたというのが、新聞社の言い分なのだけれども、私がこのコラムの担当者なりデスクだったら、こんなものは載せない。

こちらはマルガリータ。

こちらはマルガリータ。

「日経レストラン」の記者時代、こういうことがあった。ある記者がある飲食店を取材して、その店の経営について記事を書いた。記事では、お客に人気のドリンクメニューについても触れていた。

 このドリンクメニューには、「サリン」「VX」という名前のカクテルも含まれていた。店主がジョークのつもりで名付け、お客も面白がって注文していたという。

 原稿を読んだデスクは、この商品の名前をそのまま掲載することは見合わせたいと記者に告げた。理由は、これを伝えれば、読者が不快に思うはずであること、松本サリン事件、地下鉄サリン事件はじめ一連のオウム関連事件の被害者、関係者を傷つけるはずであること、ということだった。

 店の記事としては、経営内容や店主の考え方が読者にとって得るところもあるから、記事自体は掲載する方向で考える。ただし、このドリンクのネーミングについては編集部として支持できない。従って、良い経営の事例を紹介する趣旨の記事の中に、これは含めない。そういうことだった。執筆した記者も、他の記者も、デスクのその考え方に賛同した。

 記事というものは、読者に何を読み取り、何を感じてもらうかという狙いを持ったものであり、その影響についても丁寧に配慮されたものでなければならない。それを考えれば当然の判断だ。

 よく、メディア制作の現場には差別表現をリスト化した禁句集があるという誤解があるが、私がこれまでかかわったメディアで、そういうばかばかしいものを用意している編集部は、ない。

 どういう表現をすべきか、どういう表現をするべきでないかは、記者、デスク、編集長の一人ひとりが、それぞれの人間性のありったけをもって判断するものだ。判断が間違っていれば、責任を負う。禁句リストがある編集部というものがあるとすれば、そうした判断とそのための悩みというプロセスを省略ないし自動化しようという発想に基づいているはずで、無神経、無責任な制作を助長しかねない。

 表現する狙いを持ち、表現したことの影響をできる限り広く想像できること、間違っていたら責任をもって対処すること。メディアにかかわる人には、そういうリーダーシップがなければいけない。

 もちろん、善良な“狙い”を持つ、善良な人間性も育てなければならない。

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