小阪裕司さんが「面白い」と言ってくださったので、私と全日空の思い出話を。出会い、あこがれ、蜜月、“裏切り”と別れ。そして、再会と“和解”。長い話になると思う。
小さなころから、とにかく飛行機が大好きだった。
初めて本物の飛行機を間近に見たのは、2歳の冬。父が出張に行くのを、函館空港へ見送りに行った。エプロンには除雪した雪がところどころに溜まっていた。母に高く抱きかかえてもらいながら、父が乗っているはずの飛行機が尾翼を巡らして滑走路へ向かうのを見つめた。
2歳で覚えているのかって? もちろん。鮮明に。1歳のころに住んでいて、その後は立ち入っていない官舎の風呂場の映像もまざまざと思い出せる。
白と青のフレンドシップの尾翼には、赤丸に不思議なくるくる模様の付いたマークが付いていた。その全日空(全日本空輸。ANA)のマークが、私にとっての飛行機のマークになった。だから、飛行機の絵を描くときは、上手には描けなくても、尾翼にくるくる模様を描くようになった。
あれが、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたヘリコプターのデッサンを元に作られたマーク(「ダヴィンチマーク」と言うらしい)で、創業当時ヘリコプター輸送を行う会社だったからと知るのは、その後小学生のころ。
函館では、風向きによって飛行機が市街の中心を突っ切って降りてくる。そして私の家も学校も、空港からは近い。函館空港の西端にコンパスの針を置いて、滑走路の長さだけ足を広げて円を描くとする。昔、まだ滑走路が短かったころでも、その円の中に私の生活圏はすっぽりと収まっていた。だから、いつもくるくる模様の付いた飛行機が飛び立ったり降りてきたりするのを見上げながら遊んでいた。
「早く飛びたいな」
カエルとカマキリとバッタとドジョウとザリガニと犬の世話のほかには、そればかり考えていたような気がする。
その後、大阪万博のときに、近所の友達のたっちゃんとたくちゃん兄弟が飛行機に乗ったと聞いて、とてもうらやましかった――空を飛ぶんだって。それから、バンパクってどんなところだろう。
また、あの冬の日、父はまず東京へ飛び、そこからハワイへ向かったのだと聞いた――東京って、どんなところだろう。ハワイってどんなところだろう。
飛行機は、空を飛ぶだけでなく、灰色の街から飛び立って知らないところへ連れて行ってくれるものの象徴になった。
もう少し飛行機が身近になったのは、小学校2~3年生ぐらいのころ。新しく建て変わった空港に、なぜかプラネタリウムが出来た。それが珍しくて、よく友人とバスに乗って観に行った。
プラネタリウムが始まる前と視聴の後、空港を探検して回った。プラネタリウムのある展望台に続くフロアには、市内のプラモデルマニアのクラブのメンバーが作った、世界中の飛行機の模型がショーケースに入って並んでいた。それを何十分も飽きずに観ていた。いろいろな飛行機があるものだと思った。また、くるくる模様以外の飛行機もたくさんあるとわかった。
模型を観たり、空港のジオラマの電光のボタンを押しまくったりして過ごしている間に、飛行機が降りて来たり、離陸の気配を感じると、急いで展望台に出た。飛ぶのも、降りるのも、いちいち興奮しながら、瞬間瞬間の飛行機の動きを目に焼き付けていた。
あのころ、函館に定期便を飛ばしているのは全日空と東亜国内航空(現在は日本航空に統合)だけだった。後には奥尻島へ飛ぶ日本近距離航空(現エアーニッポン)というのも出来たけれど。
テレビを見て、世の中には鶴のマークの日本航空という会社もあるとは知っていた。ジャンボジェット(747)を飛ばしている会社だ。しかし、鶴のマークが飛んで来ることはまずない。法律で日本航空は国内は幹線と決まっていたからなのだけれど、子供だった私には、芳しい印象がなかった。東京とか、大阪とか、よその国とか、そういうお客の多いところばかり選んで飛ぶ、偉そうで、“すかした会社”と見えた。無垢なる、ならぬ無知なる子供は怖いものだ。
全日空は違った。僕らの空港(そう。あれは「僕らの空港」だった)によく来てくれる。航空二番手という判官贔屓の気持ちも満足させてくれる。飛行機は白と青の塗装がかっこいい。私のお気に入りは太っちょの737。727はまあまあ。3年生のころにはトライスター(ロッキード事件のネタになった飛行機)が就航して、あの大きさと安定感のある見栄えがたまらなかった。なにしろ、全日空は、田舎函館の男子にとっては、いちばん身近で、見ていてうれしい飛行機だった。
東亜国内航空はどうかって? まず、飛ぶ本数が少ない。白と赤と黒の塗装がかっこわるい(男の子ウケしない色)。DC-9が727の廉価版みたいでかっこわるい。悪いけど、数段見劣りがした。
模型もジオラマも観てしまって、離着陸もなく時間をもて余すと、空港の中のあちこちを歩き回ったり、走り回ったり。エスカレーターを上がったり下りたりした。さぞ迷惑なガキだったに違いない。
そういう私たちに、全日空のカウンターにいるお姉さん(当時の呼称グランドホステス)が声をかけてくれた。地元の人なんだろうけど、この人たちも颯爽としてかっこよかった。
「何だろう?」と近づいて行くと、絵はがきとか、パンフレットとか、飛行機の写真が付いているものをくれた。トライスター就航が近いころは、それを記念したステッカー(シールって言ってたね)をくれた。うれしかった。
そんなこともあって、私も友達も全日空にメロメロだった。全日空以外は飛行機会社じゃないとさえ思っていたと思う。
とにかく、そうやって空港で遊んだり、プラモデルを作ったりして、飛行機に乗りたい気持ちを膨らませつつ、それを抑え込んで我慢していた。それが小学校4年生までのころ。